昭和24年(第1回)
終戦後の混乱の中で、市民が明るい希望を持ち一日も早く立ち直ることを願って、8月15日、諏訪湖で初めて「納涼諏訪湖花火大会」を開催。主催は諏訪市観光協会、後援は市・商工会議所・南信日日新聞社などで、大会の総費用は18万6千円。午後8:00から9:30まで、1時間30分にわたって打ち上げられた数々の花火は、見物に訪れた5万の観衆を魅了した。翌16日には納涼船コンクールも開催。
昭和25年(第2回)
この年から大会の名称は変わり、「諏訪湖上煙火大会」となる。市制施行10周年記念ということもあって盛大に開催され、仕掛け花火の打ち上げや長さ200mのナイヤガラも登場。大会に際し、上諏訪駅の乗降客数は21,500人に及んだ。
昭和26年(第3回)
大会の主催を諏訪市・市観光協会・商工会議所の三者で行なうことになった。花火費用は18万円。大会は午後8:30から約1時間におよび、湖中3ヶ所から花火が打ち上げられた。翌16日の納涼船コンクールは人出が多く、上諏訪駅開駅以来3番目に多い旅客収入を記録。
昭和27年(第4回)
大会費用25万円。ますます盛大な大会となり、この年完成した第1湖畔公園を中心に10万人の見物客であふれ、特に駅前は戦後最高の人出と言われた。またこの年、諏訪湖に遊覧船が就航した。
昭和28年(第5回)
大会費用は35万円となり豪華な大会と言われたが、雨のため8月22日に延期。さらにこの日も小雨に見舞われた。茅野—上諏訪間のバスが30便増発されたものの、例年に比べると寂しい人出となった。
昭和29年(第6回)
観光と花火の打ち上げ場を兼ねた「初島」が8月に完成。花火大会はこの初島開きを兼ねて行なわれ、花火の費用45万円、人出は10万人という盛大な大会となった。翌16日に灯篭流し、17日には納涼船コンクールが行なわれた。
昭和30年(第7回)
この年、中洲村と湖南村が諏訪市と合併。この頃から仕掛花火も多くなり、湖岸には早くから場所を求めてゴザを敷く人々が見られるようになった。
昭和31年(第8回)
元禄年間の煙火であった珍しい型・鳥の声入りなど、新しい花火が登場。この年、市制施行15周年の式典が行なわれた。 打ち上げ開始は午後7:15と大会開始時刻も早まった。
昭和32年(第9回)
四角に開く花火や笛が鳴る曲付き花火などが新たに登場。第2回大会以来使われてきた「湖上煙火大会」という名称はこの年までとなり、納涼船コンクールも今回が最後となった。
昭和33年(第10回)
第10回の記念大会は約6万の人出で賑わったが、開始直前に降り出した雨のため予定通り行なうことができなかった。中には火薬がシケてしまい、発火できない仕掛けもあった。この年から現在と同じ大会名の「諏訪湖まつり」となる。
昭和34年(第11回)
台風7号のため大会を9月22日へ延期したが、伊勢湾台風に襲われて再び延期となり、結局、肌寒い10月8日に開催した。花火大会の歴史の中で、8月に行なわれなかったのはこの年だけである。
台風7号の影響で洪水が起こり、神戸橋・車橋が流出、上川堤防が決壊し小和田水田は泥海と化すなどして災害救助法が発動された、災害の年でもあった。
昭和35年(第12回)
花火大会の主催を市に一本化し、実行委員会を設立。花火費用は初めて100万を越えて120万円となり、ミス諏訪湖コンテストも行なわれた。オーストリアのベルグ市・クンドル自治体と姉妹都市締結、また、諏訪湖開きの行事が始まったのもこの年である。昭和4年から続いた上諏訪温泉競馬はこの年で最後となった。
昭和36年(第13回)
市制20周年を祝い、17万円と15万円のナイヤガラ2基、5万円のスターマイン尺玉などが豪華に打ち上げられた。競技スターマイン・水上スターマインはこの年から始まる。6月には、豪雨のため市内全域で浸水するなどの災害があった。
昭和37年(第14回)
1基25万円の大仕掛け花火、長さ350mのナイヤガラなど、290万円の花火が約15万人の見物客を魅了した。山の手の高台は見物客の車で交通渋滞となった。
昭和38年(第15回)
花火の費用は350万円。長さ700m のナイヤガラや2尺玉も登場し、20万人の人出で賑わった。
昭和39年(第16回)
この年、新産業都市の指定を受けた松本・諏訪地区の10社が競技スターマインに協賛し、7号早打ち競技が始まる。 ナイヤガラ瀑布は長さ1000m。 中央東線の甲府、上諏訪間が電化され、この頃から交通規制が行なわれるようになった。
昭和40年(第17回)
静岡県伊東市と姉妹都市の締結をし、同市の関係者を花火大会に招待。この頃から花火の内容・規模・技術とも日本一との風評がたち始める。またこの年、あやめ園が開園し、第1回あやめ祭が行なわれ、駅前には諏訪丸光デパートがオープンした。
昭和41年(第18回)
花火の費用は620万円になり、湖中の打ち上げ用施設に用いた丸太は8,000本、打ち上げ台10基、ナイヤガラは1,500mに及んだ。この年、松本・新宿間に特急あずさが開通したこともあって、30万人の人出となり四囲の山々まで見物客で埋め尽くされた。
昭和42年(第19回)
大会費用は840万円。マイカーで訪れる見物客が増えたため、交通規制も一段と厳しくなった。この年、湖畔にかりん並木ができ、翌年にはかりん祭りを開催。
昭和43年(第20回)
100万円の仕掛け花火2基、80万円のもの2基、50万円のもの5基、大水上20号スターマイン3基など、花火費用総額1,200万円。内容・規模ともに充実して花火大会史上空前のスケールで行なわれ、20回を飾るにふさわしい大会となった。この年、白樺湖・霧ヶ峰・強清水有料道路ビーナスラインが開通。
昭和44年(第21回)
高度成長期の中にあって花火大会の費用も年々増え、打ち上げ花火だけで1,000万円を超える。大玉スターマイン・水上スターマインを組み合せた”天と地と”など新しい花火が登場。またこの年、市庁舎が落成し竣工式典が盛大に行なわれた。
昭和45年(第22回)
台風15号による悪天候のため、実施か延期か迷う。予定通り開催となったが、途中降雨のため一部を16日に延期。この年、高島城が復興されたことを祝した仕掛花火・10号早打ちなどが披露された。
昭和46年(第23回)
市制30周年を祝い、花火大会も盛大に開催。7月に、諏訪湖の花火を愛し続けた裸の天才画家、 山下清さんが亡くなり、その顔を型どった仕掛け花火で故人の冥福を祈った。
昭和47年(第24回)
花火の規模も一段と大型化されて内容もさらに充実。約30万人の見物客で賑わった。マイカーラッシュのため交通規制も広範囲に敷かれるようになり、学校の校庭など7ヶ所に臨時駐車場を設置した。
昭和48年(第25回)
花火の費用が1,600万円に膨れ上がったため番組の1回ごとのスケールを大きくし、見応えのあるものとなった。この年の花火大会には、高松宮御夫妻もおいでになりご観覧された。
昭和49年(第26回)
花火費用は2,000万円になる。水上スターマインは趣向を変えて初島の両サイドから打ち上げを行ない、フィナーレの大ナイヤガラは、米国セントルイス市との姉妹都市締結を記念して、七ッ釜から衣の渡川の出先まで延長し1,600mに及んだ。この年、中央自動車道諏訪湖SA建設を着工。
昭和50年(第27回)
この年、オイルショックが起こり産業界を中心に深刻な不況にあえいだ。そのため予算も1,400万円に縮小し、26回まで続いた16日の花火を取り止め、以後花火は15日、1日だけとなる。”キス・オブ・ファイヤー”と命名された水上スターマインが評判を呼んだ。
昭和51年(第28回)
スポンサーのご協力によって花火打ち上げ費が1,570万円に復活し、大スターマイン”ビューティフルサンディ”などが話題を呼んだ。姉妹都市セントルイス市の助役、マギー夫妻も訪れて花火を楽しまれた。この年、霧ヶ峰では第1回霧ヶ峰花まつりを開催。
昭和52年(第29回)
大会費用2,527万円のうち、打ち上げ花火に1,650万円を費やす。天候も絶好と、コンディションにも恵まれ、35万人の観衆を魅了し満喫させた。
昭和53年(第30回)
花火大会も回を重ねて30回。この年は、第33回やまびこ国体開催年でもあった。花火の協賛金は2,112万円になり、総費用も3,393万円と増加。湖畔一帯は遊園地から柳並川まで埋立整備されて観覧席も広くなり、花火の規模・内容ともに充実した豪華な記念大会であった。
昭和54年(第31回)
スポンサーの協力もあり、花火協賛金は前年を上回る2,214万円となる。絶好のコンディションの中、27セットの花火が打ち上げられ、一段と広くなった湖畔を埋め尽くした大観衆は、湖上の大絵巻に酔いしれ、行く夏のひとときを満喫した。米国ミズリー州からの生活体験者も見物に訪れて「ワンダフル」を連発した。
昭和55年(第32回)
湖畔は千貫溝まで整備され、観覧席券販売のためのPRポスターが作られた。天候にも恵まれたこの大会の費用は4,000万円を超え、御柱祭を祝っての仕掛け花火、15号玉水上スターマインを孔雀の羽に見立てた、初島への孔雀の仕掛けなども話題を呼んだ。
昭和56年(第33回)
市制施行40周年記念を迎え、姉妹都市伊東市の協賛を得て花火協賛金は2,821万円になり、20号玉を含めた水上スターマインが初登場するなど、豪華な花火の饗宴に大観衆はフィーバーした。湖畔は全面埋立てが終わり、商業連合会の協賛招待席を設置。また、この年開通した中央道諏訪ルートからの入り込み客も多く、大会当日のSAは大混雑。大会後は各ボランティア団体のご協力によりゴミ処理を行なった。
昭和57年(第34回)
大会費用5,204万円、花火協賛金は3,000万円を超え、湖上打ち上げ台も10台となる。自由の女神も登場。特に、開花直径600mの30号玉を含めた大型水上スターマインの迫力は、湖畔の大観衆を驚嘆させ、興奮のるつぼに誘い込んだ。ヨットハーバーはこの年から駐車整理料金を徴収するようになった。
昭和58年(第35回)
6月、諏訪湖畔に、米国イエローストーンに次いで世界第2位の間欠泉が噴出。それにちなんで新趣向の間欠泉花火が登場し、さらに30号玉・20号玉を含む大玉水上スターマインなどが打ち上げられた。大会費用5,473万円、花火費用は3,394万円。昭和53年以来の大型台風5号の接近により、時々小雨に降られながらも、観客を魅了した大会であった。
昭和59年(第36回)
スポンサーの温かい協力も年々増し、花火協賛金は3,652万円と過去最高額。水上スターマインの大玉化や新作花火の打ち上げなど、新しい趣向を凝らした花火で観衆を酔わせる大会となった。また、伊東市・台東区・秦野市からも関係者多数を招待して友好を温めあった。諏訪市はこの年「アメニティタウン構想推進モデル都市」に指定され、会場からのゴミ持ち帰り運動もそれに併せて行なわれた。
昭和60年(第37回)
湖畔公園の造成工事が始まり指定席は20%減少、自由席が多くなる。年毎に膨れ上がる、人々の花火に寄せる期待に応えて、緑光花火・ヤシ・冠菊の大スターマインなど、見応えのある花火が打ち上げられた。好天にも恵まれ、郊外の高台まで含め40万人とも言われた多くの見物客は、光と音の一大ページェントにお盆の宵のひとときを楽しんだ。
昭和61年(第38回)
湖畔一帯は立派な公園に生まれ変わり、起伏に富んだ桟敷もなかなか好評。御柱祭の年ということもあり、湖畔の人波の中を威勢よく長持ちが練り歩いた。大会費用は6,000万円を超え、花火協賛金も3,577万円と増加。4本の御柱に見立てた間欠泉花火から、この年初登場の楕円型花火、フィナーレの大ナイヤガラ花火まで、32セットのゴージャスな火の芸術に観衆を沸かせた大会であった。
昭和62年(第39回)
60年からの急激な円高や貿易摩擦が続く、厳しい経済情勢の中ではあったが、花火協賛金はスポンサーの協力によって前年を上回る3,975万円となり、花火の内容も一段と充実。大型スターマインが増えて33セットのプログラムが組まれた。開始直前のにわか雨で一部打ち上げに支障があったものの、花火師が秘術を尽くした競技花火や大型のスターマインなど、湖上の饗宴は大観衆を沸かせるに充分な大会であった。
昭和63年(第40回)
回を重ねて40回。産業界も経済的には円高などを克服し、順調な歩みを続ける中、この年もスポンサーの温かい協力により花火打ち上げ費用は4,000万円を超え、過去最高額となる。40回目を祝して湖上高く炸裂し、豪壮な響きを大空に轟きわたらせたオープニングの祝砲花火から、煙火師の技と美を競う10号早打ちやスターマインの競技花火、他に例のない10号35連発の早打ちなど、一つ一つの構成・演出に趣向を凝らして打ち上げられる9セットの大スターマイン、フィナーレを飾る大ナイヤガラまで、記念大会にふさわしい絢爛豪華な花火大会となった。
平成元年(第41回)
昭和から平成へと変わったこの年は、スポンサーの協力によってスターマインが2セット増え、セット数35となる。残念ながら雨中の花火大会となったが、オープニングの間欠泉花火からフィナーレの大ナイヤガラまで、2時間に及ぶ湖上の饗宴を観客は十分堪能した。またこの年、観光協会の主催によって8月16日の灯籠流しが15年ぶりに復活した。
平成2年(第42回)
経済界の好景気に支えられて、スポンサーからは前年を大きく上回る5,000万円余りの協賛金が寄せられ、今年も1セット増えてセット数36となる。1998年の冬季五輪長野招致運動に呼応した仕掛け花火や、従来と構成を異にして1,500mまで延長されたフィナーレのナイヤガラなど含め、打ち上げ花火総数は33,000発。第26回大会以来参加を続けた土浦火工(株)に代わり、今年から新たに中日本火工(株)が花火師の仲間入りをした。
平成3年(第43回)
市制施行50周年を記念し、花火協賛金も6,400万円を越える。オープニングは伊東市・台東区・秦野市提供の仕掛け花火が打ち上げられた。さらに、豪華な大スターマインが1基増え、フィナーレのナイヤガラは2,500mにおよび、花火打ち上げ総数35,000発という大規模な花火大会になった。この年、近年にない絶好の気象条件に恵まれて、湖畔や周囲の高台を含め、45万人の大観衆を魅了した。本年より湖中打上台が鉄骨製となったことにより、6号のスターマインが初登場した。
平成4年(第44回)
バブル経済の崩壊による大変厳しい状況にあったにもかかわらず、スポンサーの協力により協賛金は5,500万円余りとなる。昨年に引き続き好天にも恵まれ、長さ2,100mのナイヤガラなど、一昨年を越える規模の大会となり42万人の観客を魅了した。1部に競技花火・2部にスターマインの構成となる。
平成5年(第45回)
前年に引き続き進む円高で一層厳しさは増したが、スポンサーの理解と協力により5,400万円余りの協賛金が寄せられる。今年も1セット増えて、プログラムのセット数37、ナイヤガラは1,600mを越えることができ、ほぼ前年並みの大会となった。開始直前まで降り続いた雨も打ち上げ時にはすっかり止み、空高く舞う美しい花火が、どっと押し寄せた観客を魅了した。またこの年は、諏訪地方を舞台にしたNHK朝の連続テレビ小説「かりん」が全国放映された年でもあった。
平成6年(第46回)
経済界はとどまるところを知らない円高に見舞われ厳しさが続いたが、スポンサーの深い理解と協力により、協賛金は約5,000万円となる。新たに導入された「お祝い花火」も好評を博し、総セット数36、ナイヤガラも1,600mと前年並みの規模で開催できた。また、8月15日は絶好の花火日和に恵まれたほか、諏訪測候所観測史上最高の35.5度の猛暑となり、涼を求めて45万の人出となった。
平成7年(第47回)
当市の経済界は依然として厳しさが続いていたが、スポンサー各位の深い理解と特段の協力により、協賛金は目標を上回る約5,100万円が寄せられる。総セット数も37と1セット増え、ナイヤガラは1,600mと前年並みに開催できた。この年より新しく上諏訪駅の西口に臨時改札口を設けたため、上・下ホームとも人の流れは順調になった。この年は阪神大震災、オウム事件など痛ましい出来事が起き、全国民を震撼させた年でもあった。
平成8年(第48回)
前年同様大変厳しい経済状況にあったにもかかわらず、スポンサーの協力により、協賛金は5,100万円余りとなる。今年も1セット増えて総セット数38、ナイヤガラは1,600mと前年並みの大会となった。台風の影響のために前日まで開催が心配されていたが、当日は好天。また、湖畔に新しく「ふれあいなぎさ」が整備され、観覧席も広くなったこともあって、45万5千の人出となった。この年、病原性大腸菌O-157の大量感染が発生し、全国的に衝撃を与えた。
平成9年(第49回)
経済界は上向き傾向が見えたものの、依然として厳しい状況が続く中で、スポンサー各位の深い理解と特段の協力により、大会規模は前年を上回ることができた。プログラムのセット数は39。長野冬季五輪を翌年に控えて五輪仕掛け花火なども加わり、45万5千人の人出で賑わった。この年は都市銀行・大手証券会社の経営破綻や、株価の下落により日本経済に対する危機感が高まった年であった。
平成10年(第50回)
経済界の前半期は、景気浮揚の総合経済対策が打ち出されたものの、円安・株価の下落が続き、非常に厳しい状況であった。しかし第50回を迎え、これまでと同様のスポンサー各位の深い理解と特段の協力を得て、第50回の記念花火を含めプログラムのセット数は、過去最高の40セット。この年は2月に長野冬季オリンピック、3月には長野冬季パラリンピックが県内で開催され、全世界に「諏訪の御柱」が紹介された。また、4月から年内は平成10戊寅年御柱祭が開催され、見物人は178万人を数えた。
平成11年(第51回)
どん底景気から多少は抜け出した感はあるものの、先行きが極めて不透明な状況であった。第51回大会ということで新しいスタートを切った訳であるが、スポンサー各位の深い理解と格段の協力を得てプログラムのセット数も予定より1セット増え、39セットが確保できた。しかし、前日からの雨と当日の天候が悪いことも相俟って前年より少ない43万5千人の人出となった。
平成12年(第52回)
各地で地震、火山の噴火、少年の凶悪犯罪など暗いニュースが多い中、景気も徐々にではあるが快復の兆しが見えてきた。プログラムのセット数は38セットと前年比1セット減ではあるが、ミレニアムの年でもあり趣向を凝らして打上げ、45万人の観客を魅了した。
平成13年(第53回)
景気の悪化傾向は変わらず、不透明感が広がり引続き厳しい状況の中、各地で花火大会が中止となっている。このような状況ではあるが、スポンサー各位の深い理解と特段の協力により、前年同様プログラムのセット数38セットを維持し、趣向を凝らして充実した大会となった。
平成14年(第54回)
アメリカの同時多発テロ、アフガン戦争、狂牛病など暗いニュースがあったものの、サッカーワールドカップが日韓共同開催され、両国チームの活躍が目立った。一方、経済界を取り巻く環境は極めて厳しい状況が続く中多くの協賛金が寄せられ、プログラムセット数38を維持することができた。打ち上げ台も一部変更し充実した大会となった。
平成15年(第55回)
イラク戦争の勃発、SARSの流行、長引く経済不況等依然として厳しさが続く中で、スポンサー各位の深い理解と特段の協力により、プログラムセット数は前年より2セット増え40セットの確保ができた。天候不順により開始直前まで降り続いた雨も打ち上げ時にはすっかり回復し観客を魅了した。また、ゲーム・テレビアニメ・劇場映画・キャラクター商品などで世界中の子供たちから愛されている「ポケモン」の打上花火が実施された。
平成16年(第56回)
新潟県中越地震や過去最多の台風の上陸など災害に見舞われた1年だったが、幸いにも諏訪地方には大きな被害もなかった。経済界は依然として厳しい状況が続いているが、一部に回復基調も見えてきた。こうした状況の中、スポンサー各位の理解と協力によりプログラムセット数39セットが確保され、この年は新たに尺玉50連発大スターマインが打上げられた。
平成17年(第57回)
経済界の景気回復に支えられて、スポンサーからは前年を大きく上回る6,500万円余りの協賛金が寄せられ、花火の打ち上げ総数も初めて40,000発が打上げられた。この年、温泉・温水利用型健康運動施設「すわっこランド」がオープンした。また霧ヶ峰の野焼きが多くの住民の皆さんの協力を得る中で、半世紀ぶりに実施された。
平成18年(第58回)
7月17日に発生した豪雨災害により、諏訪湖の氾濫による家屋やホテルの冠水、土砂崩落や土石流の発生など大きな被害を受けた年でした。こうした中、スポンサーからは過去最高の約7,000万円の協賛金が寄せられ、前年より1セット増え40セットとなる。23年ぶりに復活した20号・30号の大水上スターマインを含む41,000発の花火が打ち上げられ、48万人の観客を魅了した。
平成19年(第59回)
大幅な原油高が産業界・市民生活を直撃する中、いざなぎ景気を上回る戦後最長の好景気に支えられて、昨年を上回る約7,361万円の協賛金が寄せられた。44年ぶりに復活した20号玉の打ち上げを含む過去最高の42,000発が打ち上げられた。またこの年はNHK大河ドラマ「風林火山」が全国放映され、諏訪市への観光客数が初めて800万人を超えた年でもあった。
平成20年(第60回)
原油、原材料等の急激な高騰により、わが国経済は景気に陰りが見え始めた。先行きに不透明感が漂う中、スポンサー各位のご理解とご協力により約8,326万円の協賛金が寄せられ、60回の記念大会にふさわしい43,000発が打ち上げられた。また新たに企画した「市民花火」も好評を博し、開幕にあわせて尺玉60連発が打ち上げられた。絶好の花火日和の天候に恵まれ、過去最高の50万人の観客を魅了した大会であった。
平成21年(第61回)
大会直前の8月8日、1時間に118mmという記録的な集中豪雨により、市内各所で土砂崩落や土石流が発生し、大きな被害を受けた。また米国のサブプライムローン問題に端を発した百年に一度と言われる経済危機は、雇用情勢の悪化、賃金の抑制、個人消費の減少など地域経済にも大きな影響を及ぼし、さらに新型インフルエンザの世界的拡大などが加わり、非常に厳しい経済状況下での開催となった。各地の花火大会が中止となる中、「諏訪湖の花火」を支えて下さるスポンサー各位の深いご理解とご協力により、約7,012万円の協賛金が寄せられ40,000発の花火が打ち上げられた。
平成22年(第62回)
本年は諏訪大社の式年造営御柱大祭が行われ、氏子・観衆を合わせ過去最高の192万5千人の人出で賑わった。こうした中で、日本経済は緩やかな景気回復がみられるものの、諏訪地方は依然として厳しい経済状況が続く中での開催となった。本年もスポンサー各位のご理解とご協力により、約6,700万円の協賛金が寄せられ、36セット40,000発の花火が打ち上げられた。
平成23年(第63回)
3.11東日本大震災・3.12未明に起きた長野北部地震の影響を受け、各地の花火大会等をはじめ、多くのイベントが中止・自粛となるなか、スポンサー各位のご理解とご協力により約6,700万円の協賛金が寄せられ、36セット39,000発が打ち上げられた。今大会は、東北の石巻市の石巻川開き祭り花火大会へ支援を行いました。また、開幕前には、実行委員会会長より、震災によりお亡くなりになった方へ、哀惜と追悼の気持ちを花火に託し打上げを行いました。
平成24年(第64回)
173年ぶりの金環日食や金星の日面通過など、世紀の天体ショーに宇宙の神秘を体験した年となりました。日本経済では、欧州債務問題をはじめ、為替相場、株価など不安定要素が相次ぐ中で、「諏訪湖の花火」を支えてくださるスポンサー各位の熱意と深いご理解とご協力により、約6,500万円の協賛金が寄せられ、新企画「ミュージックスターマイン」を含めた36セット40,000発の花火が打ち上げられました。
平成25年(第65回)
富士山が、三保松原を含めて世界文化遺産へ登録されることが決定し、明るいニュースとなりました。今年の冬の諏訪湖も、昨年に引き続き御神渡りが出現し、御神渡り神事(諏訪市指定無形民俗文化財)が行われるなど話題となりました。
スポンサー各位のご協力により約6,600万円の協賛金が寄せられました。しかしこの年の花火大会は当日夕方から天候が悪化し、花火大会開始直後から急激な荒天となり、これ以上大会を続行することは危険と判断。諏訪湖祭史上はじめて大会の途中中止となりました。
平成26年(第66回)
2・3月にはロシアのソチで冬のオリンピックとパラリンピックが開催され、また6・7月には南米ブラジルでサッカーのワールドカップが開催されるなど、世界的なスポーツイヤーとなりました。
経済状況は4月の消費税率引き上げで一時的に減速が見られ、一部で持ち直しの動きがあるものの全体としては厳しい状況が続いております。そのような中、夏の諏訪湖で開催されます諏訪湖祭湖上花火大会は、大会を支えてくださるスポンサー各位の深いご理解とご協力により、約6,800万円の協賛金が寄せられました。
今年は2年分の思いを込め、36セット約40,000発の花火が打ち上げられます。
平成27年(第67回)
戦後70年を迎える本年は、口永良部島噴火、ネパール大地震など自然の猛威や、国際的な新たな脅威発生など、非常に不安定な情勢となりました。
一方、北陸新幹線が開業し、善光寺御開帳は過去最高の人出を記録、諏訪市をはじめ各地でプレミアム付き商品券が販売されるなど、地方創生元年として賑わいをみせました。
春の統一地方選では、長野県初の女性市長として新たな諏訪市長が誕生し、新体制で初開催となる本大会は、スポンサー各位のご理解とご協力により、約6,800万円の協賛金が寄せられ、4年ぶりに復活となる尺玉連発を含め、35セット約40,000発の花火が打ち上げられました。
平成28年(第68回)
諏訪地方は、数えで7年に一度の諏訪大社式年造営御柱大祭の年を迎え、4月は豪快な木落しで有名な山出し、5月には絢爛豪華な建て御柱の祭りが行われ、全国から186万人の人出で賑わいました。また、夏から秋にかけては各地区で小宮祭が開催され、1年を通して御柱祭の熱気に包まれました。
一方、4月14日に熊本地震が発生し、九州地方で多くの被害が出るなど自然の猛威に晒されることとなりました。
そうした世情の中、御柱祭と重なる年にも関わらず、「諏訪湖の花火」を支えてくださるスポンサー各位の深いご理解とご協力により、約6,800万円の協賛金が寄せられ、35セット約40,000発の花火が打ち上げられました。
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